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経世会支配と政治改革

【 以下の引用等は全て--の責任による。】
 目次

はじめに
第一章    経世会の誕生
 第一節   創政会の発足
 第二節   経世会旗揚げと竹下内閣の誕生
第二章    経世会支配の完成
 第一節   竹下内閣の退陣
 第二節   経世会支配の完成
 第三節   経世会支配の弊害
第三章    分裂と政治改革
 第一節   経世会の分裂
 第二節   非自民連立政権
 第三節   小沢の政治改革
 第四節   小沢の挫折
第四章    小泉内閣の誕生と経世会支配の終焉
 第一節   経世会支配の復活
 第二節   小泉内閣の誕生と経世会支配の終焉
おわりに



はじめに

 「経世会」(現在は平成研究会)とは、自民党田中派の流れを組む、竹下派の正式名称で
あり、竹下登の後は、小渕恵三、さらに、橋本龍太郎に受け継がれ、現在は、橋本派にな
っている。経世会の名前の由来は、古代中国の思想家、荘子の「経世済民」という言葉で
ある。それはともかくとして、経世会は、1987年7月に発足するが、それから、今日
までの日本の政治は、この経世会によって、支配されてきたといえる。実際、今ある主要
政党においても、自民党は、最大派閥である、橋本派が権力を握り、自由党とそれから分
裂した保守党は、経世会を割って出て、そして、自民党を離党した、小沢一郎が作ったも
のである。また、野党第一党の民主党にしてみても、代表の鳩山由紀夫や幹部の羽田孜は、
元々、経世会に所属していた人達である。
 経世会の特徴は、野党との強いパイプを持つことによる、国会対策の巧みさと、業界
団体との密接な関係に基づいた、選挙の強さであり、この2つによって、経世会は、自民党
内で、最大派閥に君臨し、また、国会運営を牛耳ってきた。そして、竹下内閣退陣後も、
宇野、海部、宮沢の各政権を、自らの意向で誕生させていった。これらは、いわば、経世
会の「傀儡政権」であり、政策決定ばかりでなく、首相の進退さえも、経世会によって握
られていた。
 リクルート事件が契機となり、こうした「経世会支配」に対し、「派閥政治」「金権政治」
「権力の二重構造」との批判が強まり、政治改革が唱えられ、そして、政界再編が起きて
いく。政治改革では、「政党、政策本位」「政界浄化」が掲げられたが、言い換えれば、こ
れは、経世会支配の打破を実現しようとするものではなかったのだろうか。
 しかし、1993〜94年の政治改革、政界再編は、自民党を一時的に下野させ、選挙
制度改革を行うにとどまった。つまり、経世会支配を終わらせることは出来ず、その後、
自民党が、政権復帰を果たしてからも、経世会支配は続いた。
 そして、この10年余りに渡る、経世会支配が日本政治にもたらしたものは、自民党内
における総主流派体制と、政党分野全体における総保守化、それに、有権者の間の政治的
無関心だったのではないだろうか。
 だが、一方で、2000年の竹下、小渕の死去や、2001年の小泉純一郎内閣の誕生
により、経世会支配は終焉を迎えつつある。このような現状を踏まえつつ、経世会の、主
として、90年代の日本政治における功罪と、派閥政治や経世会支配に対して、一貫して
主張され続けた政治改革とは何だったのかを検討する。


第一章  経世会の誕生

第一節  創政会の発足

 1980年代の日本政治は、鈴木善幸、中曽根康弘両内閣を通じて、田中角栄元首相が、
最大派閥田中派の数の力を頼りに、政権を左右し、「田中支配」と呼ばれていた。しかし、
一方で、田中以来、10年以上も、総裁選に自前の候補を立てなかった田中派内では、不
満が鬱積していた。
 田中派内で、早くから総裁候補と目されていた、竹下登は、1985年2月7日、「創政
会」を発足する。創政会には、当時、幹事長であった、金丸信、後に、「竹下派七奉行」と
呼ばれる、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、羽田孜、梶山静六ら40名が参加した。創
政会は、表向きは、政策勉強会であったが、実際は、竹下総理総裁を目指す、「派中派」で
あり、「経世会」の前身となるものである。創政会発足直後、田中は脳梗塞で倒れるが、こ
の後、田中派内では、竹下と、田中の意思を継承する、二階堂進らとの対立が続き、分裂
状態に陥ることになる。

第二節  経世会旗揚げと竹下内閣の誕生

 竹下は、1986年4月25日、衆参同日選挙に備えるために、いったん創政会を解散
した。衆参同日選挙は、自民党の圧勝に終わり、この選挙結果が評価され、中曽根総裁の
任期一年延長が決まる。そして、1987年5月14日、二階堂が、中曽根後継総裁選出
馬を表明し、再び田中派内の、竹下、二階堂両グループの対立が表面化した。これに対し
て、竹下は、7月4日、田中派140人中、大部分の113人を引き連れて、「経世会」を
旗揚げする。
 二階堂は、10月8日の総裁選告示前日に、出馬を辞退し、結局、総裁選には、当時、
ニューリーダーと呼ばれた、竹下、安倍晋太郎、宮沢喜一の3人が立候補した。そして、
中曽根裁定により、竹下が次期総裁に指名され、11月6日、竹下内閣を組閣した。
 「中曽根が、竹下を指名した理由は、竹下派が、最大派閥であり、また、間接税導入に
際して、竹下が、国会、野党対策等、法案成立に長けていたことに加えて、中曽根にとっ
て、最も使いやすく、自らの影響力を確保するのに有利であったからだとされる。」(1)
 竹下は、中曽根の支持を得て、幹事長に安倍、副総理、蔵相に宮沢を起用し、ニューリ
ーダーの結束を優先させて、磐石の政権基盤を築く。自民党はここから、「経世会支配」に
よる、総主流派体制が始まっていくことになる。

 (1)  土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社

第二章  経世会支配の完成

第一節  竹下内閣の退陣

 党内の派閥のうち、二階堂グループを除く、全ての派閥の支持を得て、竹下内閣は発足
するが、1988年6月、リクルートコスモス社未公開株譲渡問題、いわゆる、「リクルー
ト事件」が発覚し、政界を大きく揺るがした。リクルート事件には、竹下をはじめ、前首
相の中曽根や、次期総裁候補である、安倍、宮沢、さらに、渡辺美智雄、加藤紘一、森喜
朗ら、自民党の有力政治家のほとんどが関与していた。国会は大混乱に陥るが、経世会の
力と、野党の公明党、民社党の協力を取り付けたことで、1988年12月には、懸案だ
った、消費税関係の税制六法案を成立させた。
 しかし、宮沢が蔵相辞任に追い込まれるなど、閣僚の事件への関与の発覚が相次ぎ、ま
た、消費税導入が、世論の猛反発を買ったこともあり、内閣支持率は9%にまで落ち込ん
だ。そして、1989年4月22日には、従来は、明らかにされていなかった、竹下のリ
クルート社との金銭上の事実が明らかとなり、4月25日に辞意を表明、予算成立後の6
月2日に竹下内閣は総辞職した。
 リクルート事件に関しては、当時、党内は総主流派体制であり、しかも、次期総裁候補
をはじめとする、党の有力政治家のほとんどが関与していたため、竹下の責任を追及し、
経世会を攻撃する派閥がなかった。これは、ロッキード事件等の一連の金脈問題で、田中
角栄、あるいは、田中派が、三木武夫や福田赳夫に激しく攻撃されたのとは、大きく異な
る。また、田中が、金脈問題で退陣した後、自民党は、クリーンなイメージの三木を総裁
に選び、国民に対して鮮やかなイメージチェンジを図ったが、リクルート事件の際は、有
力者が、全て、事件に関与していたために、自民党政治そのものが、汚染され、制度疲労
を起こしている状態になった。このことは、リクルート事件をきっかけにして、政治改革
の必要性が、政治内部と国民の双方で高まった原因として考えられる。

第二節  経世会支配の完成

 竹下内閣は、総主流派体制で出発し、磐石の政権基盤と言われながら、無残な退陣とな
った。しかも、前述したように、党内の有力政治家が全て、リクルート事件に汚染されて
いたため、後継総裁選びは難航した。当初は、総務会長の伊
東正義の名が挙がったが、伊東が固辞したため、結局、外相の宇野宗佑となった。派閥領袖
でない最初の首相の出現である。
 宇野のような人物が、総裁に選出されたことは、リクルート事件に伴う、自民党の人材
の枯渇と、宇野内閣が、あくまでつなぎ役、傀儡政権であることを物語っている。事実、
宇野内閣は、成立後の参議院選挙で、リクルート、消費税、農産物の自由化の「三点セッ
ト」に加えて、首相自身の女性スキャンダルもあって、大敗し、責任をとって、在職わず
か68日で総辞職する。
 宇野の後継総裁には、橋本龍太郎を推す動きもあったが、結局、経世会は、橋本擁立を
見送り、河本派の、海部俊樹を、竹下、中曽根、河本三派で後継総裁とした。海部は、宇
野に続く、派閥領袖でない二人目の首相である。
 経世会は、なぜ、自派から名前の挙がった橋本を押さえ、他派の海部を推したか。「それ
は、橋本が、必ずしも派に忠実ではなく、他派の改革派から推されたのに対し、海部は、
弱小派閥の河本派の出であり、経世会が、彼への影響力を行使しやすいからであったとさ
れる。」(1)また、宇野内閣では、橋本が、海部内閣では、小沢一郎が、それぞれ幹事長
に就いた。幹事長は従来、派閥領袖クラスが起用される、党運営の中枢であり、経世会は、
このポストを押さえることで、実質的に党内を牛耳るのである。「それは、経世会支配の始
まりであり、宇野、海部の総裁は形骸化し実質的な総裁職は、金丸、竹下、小沢の'金竹小'
が握った。この、総理、総裁分離の二重権力構造は、本格政権として期待された、宮沢内閣で
も継続された。」(2)
 さらに、経世会支配の特徴は、党運営ばかりでなく、首相の進退の決定権さえも握ってい
ることである。海部は、1991年に、小選挙区制導入を柱とする、政治改革関連法案を提出
するが、9月30日、審議日数不足で廃案になった。この時、「重大な決意」で事態打開に当
る方針を明らかにし、衆議院解散を示唆したが、経世会は、この発言に反発、解散反対と首相
続投不支持を決定し、海部内閣は退陣に追い込まれた。党内基盤の弱い海部は、経世会の支
持なくしては、解散権を行使することも、その地位にとどまることも出来なかったのである。
 海部後を目指したのは、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の三人だった。この総裁選の際、小
沢が、三人の候補者を自分の事務所に呼びつけて、政策について、意見聴取するという、「小
沢面接」といわれることが行われた。これには、多くの批判が集められたが、経世会の力が、
党内でいかに突出していたかを示す事件とも言える。結局、竹下、金丸、小沢が協議して、経
世会は、宮沢支持を決定し、宮沢内閣が発足する。宮沢は、竹下以来の、派閥領袖である総裁
であったが、副総裁に金丸、幹事長に経世会の綿貫民輔が就任するなど、相変わらず、要職を
経世会が占め、その支配は続いていく。

第三節  経世会支配の弊害

 「経世会支配」は、自民党派閥政治の弊害の究極的なものであるといえる。そもそも、
派閥は、「政治資金の配分、内閣、国会、党の役職配分が求心力」といわれ、その弊害が指摘
され続けている。だが、その一方で、派閥が、党運営において、重要な役割を果たしてきたの
も事実であり、また、少なくとも、大平内閣以前は、党の活性化という、大きな効用を持って
いた。その効用を、具体的に言えば、激しい総裁選の存在に伴う、強力な指導者の養成と、擬
似政権交代機能の2つである。
 1つ目の、強力な指導者の養成というのは、各派閥の領袖が、総裁を目指すことで、領袖た
ちは、総理総裁を担うことが出来るほどの政治リーダーとしての実力を蓄えていったので
ある。2つ目の、擬似政権交代については、政局が行き詰まったり、世論の激しい反発にあっ
た局面で、他の派閥の領袖に総裁を交代させることで、人材と政策を転換させ、同じ党の政
権でありながら、ある種の政権交代を行うことである。安保政治路線のタカ派的岸政権から、
所得倍増の経済成長路線のハト派的池田政権への転換や、金脈政治と言われた、田中政権の
後の、「クリーン」三木政権の登場などは、その代表例である。
 だが、経世会支配の時期には、この2つの効用は、ほとんど失われていた。まず、強力な
指導者の養成については、経世会は、最大派閥でありながら、自派で総裁候補を立てず、他派
の候補を担いで、自らは、「キングメーカー」として、総裁を操ることに徹していた。そし
て、他派の領袖も、自らの実力で総裁の座を勝ち取ろうとはしなかったし、また、経世会の支
持なくして、総裁になることは、事実上、不可能だった。さらに、経世会にとって、都合が良い
という理由で、宇野、海部という派閥領袖でない総裁を誕生させたが、そもそも、派閥領袖で
すらなかった人物が、総理総裁の実力があったかどうか疑問だし、もちろん、党内基盤が弱
いため、自らの手で、党運営が出来ないことは明らかであった。このように、経世会支配は、
派閥間の競争による、切磋琢磨を阻害し、ひいては、日本の首相の質をおとしめたと言わざ
るを得ない。
 そして、もうひとつの、擬似政権交代機能も、経世会支配によって、失われた。この機能に
ついては、「党中党」的な派閥エゴの抗争を展開し、自民党の近代化を阻害してきたという面
もあるが、派閥間の政策面での競争や、党あるいは、政治全体の活性化を促したことも事実
である。しかし、竹下内閣以来、経世会を中心に、総主流派体制が続いたために、派閥間の政
権交代は行われなくなった。
 この機能が働いていたなら、経世会は、リクルート、消費税への批判による、竹下内閣の退
陣後、非主流派になっていただろうし、少なくとも、その後、参院選敗北という、はっきりし
た国民の審判が下りた、宇野内閣退陣の後は、政権の中枢から離れるべきだった。だが、結
局、経世会支配は、宮沢内閣退陣まで続いていく。この原因は、経世会の「数の力」が、党内で
圧倒的だったことと同時に、自民党が総裁選を競う活力を失い、国民の意思とも乖離した存
在になってしまっていたことが考えられる。

 (1)  西川知一、河田潤一 「政党派閥」 ミネルヴァ書房
 (2)  土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社

第三章  分裂と政治改革

第一節  経世会の分裂

 経世会の支持を受け、本格政権と期待された宮沢内閣だったが、結局、38年間続いた、自
民党一党支配の最後の内閣となる。その原因は、経世会の分裂とそれに繋がる政界再編だっ
た。経世会分裂の発端は、1992年8月に、党副総裁で、経世会会長だった、金丸信への東
京佐川急便の5億円献金疑惑の発覚である。金丸は、政治資金規正法違反で略式起訴され、
罰金20万円の処分が決まった。しかし、「5億円もの法律違反を20万円の罰金で済ませ
ることは問題だ」と世論の批判を浴び、10月14日には、議員辞職に追い込まれ、経世会会
長も辞職した。なお、金丸には、翌年、ゼネコン疑惑が発覚し、1993年3月6日に、所得
税法違反で逮捕された。
 この金丸会長の辞職に伴い、後継会長を巡る争いが勃発する。それは、金丸の庇護の下、派
内にとどまらず、党内でも確固たる地歩を築いていた、小沢一郎を中心とするグループと、
小沢に反発する、梶山静六や橋本龍太郎らのグループの対立である。小沢グループは、後継
会長として、羽田孜を、反小沢グループは、小渕恵三をそれぞれ担ぎ、派を二分する、激しい
抗争となった。
 なぜ、会長の座を巡って、ここまで深刻な対立が起きたのか。まず、金丸は、自分の次の会
長は、「秘蔵っ子」である、小沢と考えていた。しかし、オーナーである竹下は、小沢が会長
になることには、反対であり、自分の「側近中の側近」である、小渕が都合が良いと考えた。
竹下は、小沢の単刀直入にものを言う性格と、トップダウン的に政策決定を行う政治手法が
気に入らなかったようである。そして、金丸失脚によって、後継問題が起きたとき、竹下は、
梶山らを使って、小沢を追い落とそうとするが、中堅、若手の議員の中には、小沢を支持する
者も多く、派内を二分する対立となったのである。
 この対立は、経世会の分裂に発展する。小渕が経世会会長に就任すると、反発した羽田、小
沢グループは、1992年12月10日、「改革フォーラム21」を結成し、12月18日に
44人が参加して、羽田、小沢派を旗揚げした。1987年7月に結成した、経世会が分裂し
たのであり、同時に、党内最大派閥の座からも転落した。
 経世会を飛び出したものの、反主流派に追い込まれた羽田、小沢派は、1993年に入る
と、宮沢内閣との対決姿勢を強めていく。小沢は、衆議院の選挙制度を単純小選挙区制とす
ることを内容とした、政治改革関連法案が成立しなかった場合には、宮沢首相の責任を追及
することを鮮明にし、これに対して、宮沢は、法案を成立させることを断言する。ところが、
幹事長の梶山は、「改革は、次の参院選後に。」と法案の国会会期内成立を見送り、宮沢もこれ
を受け入れてしまった。
 野党は反発して、内閣不信任案を提出、1993年6月18日、自民党からは、羽田、小沢
派を中心に、39人が賛成票を投じ、さらに、16人が、衆院本会議を欠席したため、内閣不
信任案は可決した。宮沢は、これに対して、衆院解散、総選挙に打って出た。これを機に、羽田、
小沢派は、6月23日に自民党を離党して「新生党」を、また、武村正義らのグループも「新
党さきがけ」を結成し、総選挙に望むことになる。

第二節  非自民連立政権

 1993年7月18日の総選挙の結果、自民党は過半数を割り込み、社会党が激減した一
方で、新生党、新党さきがけ、日本新党の3新党が躍進した。この、3新党を含む、非自民8
党派は、連立政権樹立に合意し、8月9日、日本新党の細川護熙を首班とする、非自民連立政
権が誕生する。
 しかし、この連立政権には、成立当初から、さまざまな亀裂が存在していた。そのひとつが、
社会党と他の連立与党との政策面での相違であり、もうひとつは、小沢と新党さきがけ代表
の武村正義との対立であった。実際、この亀裂は、翌1994年1月29日に、衆議院の選挙
制度を小選挙区300、比例区200とすることを内容とする、政治改革関連法案が成立し
た後、「国民福祉税構想」という形で表面化する。
 連立与党内の対立による政権の行き詰まりと、自身の佐川急便からの借入金問題を抱え
た細川首相は、1994年4月、突然辞任し、この後を受けた、羽田内閣が発足する過程で、
小沢と社会党、さきがけとの対立は決定的になり、この両党は連立政権を離脱する。少数与
党政権となった羽田内閣は、結局、自民党が提出した内閣不信任案を前に、わずか65日で
総辞職することになる。
 このように、非自民連立政権の誕生は、自民党一党支配を終わらせ、政権交代を実現した
という点で、歴史的に大きな意味を持つと言える。だが、連立与党の間には、自民党を政権の
座から引き摺り下ろし、政治改革関連法案を成立させること以外に共通目的はなく、法案成
立後、連立維持が困難になったのは、当然の結果といえる。

第三節  小沢の政治改革

 1993年の政界再編について、経世会内部の権力抗争が政界全体に波及したに過ぎな
いという見方も出来る。だが、この時期、リクルート事件、佐川急便事件等、相次ぐ汚職事件
によって、自民党一党支配による55年体制の行き詰まりを感じ、政治改革、政界浄化を望
む国民世論が高まっていた点は重要である。
 こうした中で、政界再編の引き金を、直接引いたのは、羽田、小沢グループということにな
る。確かに、羽田、小沢グループが宮沢内閣不信任案に賛成したのは、党内で少数派に追い込
まれていたゆえに、大きな賭けに出たという側面は否定できない。しかし、それだけではな
く、小沢は自らの政治理念の実現のために政界再編を仕掛けたのも事実である。その理念と
は「激変する国際情勢に対応できる政治体制」(2)の構築であり、具体的には、憲法見直し、
自衛隊の海外派遣の自由等が主な内容である。小沢にとっては、これらの実現こそが「政治
改革」であり、そのためには、小選挙区制の下での保守二大政党制への移行が必要だと考え
ていた。
 小沢が目指した「政治改革」とは、何だったのだろうか。小沢は、前述した通り、1980年
代後半から常に党運営の中枢に携わり、特に、海部内閣時代には幹事長として政権運営の中
心にあった。「その時期、小沢は、対米経済摩擦と湾岸戦争という、2つの国際的な問題の処
理を任され、そこから、日本政治における発想の根本的転換の必要を痛感するようになった。
小沢の『改革』の主張は、何よりも、こうした対外的な交渉を通じて形成された危機意識が
背後にあり、日本が、より積極的な国際的役割を果たすことが不可欠であるという認識を確
たるものとした。」(3)
 そして、小沢は、従来の自社両党による「55年体制」が続く限り、改革を進めることは出
来ないという結論に達し、選挙制度改革によって、保守二大政党制に転換するしかないと判
断した。リクルート事件以来、政治改革、政界浄化を選挙制度改革によって実現するという
世論は高まっており、小沢は、そうした世論の動きに自らの構想実現のチャンスをみた。小
沢の戦略は、衆議院の選挙制度を小選挙区制に改めることで、社会党を解体し、自民党を中
央集権的にするという2つであった。
 まず、1つ目の社会党の解体については、元々、社会党の「護憲、安保・自衛隊反対」などの
政策は、小沢とは正反対のものであり、加えて、55年体制における「国対政治」では、こうし
た社会党の要求に、自民党はしばしば譲歩してきた。社会党の存在は、小沢にとって大きな
障害だったが、一方で、社会党の現状は、「各選挙区で20%以下の支持によって、辛うじて
野党第一党の地位を維持している。」(4)に過ぎず、その意味で、中選挙区制の恩恵を一番
受けていたのは社会党だった。小沢は、小選挙区制によって、社会党に壊滅的打撃を与えよ
うとしたのである。
 2つ目の自民党を中央集権的にすることについては、自民党の「なれあい政治」の打破を
目的としていた。小沢の言う「なれあい政治」とは、ひとつは、自民党政治家が、中選挙区制の
下で選挙区への利益誘導、あるいは、選挙区民への迎合に専念して、「天下国家のことを考え
ている暇がない。」(5)ことと、もうひとつは、前述した、社会党をはじめとする野党との「な
れあい」である。
 小沢は、こうした自民党の体質は、中選挙区制という選挙制度に原因があると考えた。つ
まり、中選挙区制の下では、自民党の場合、1選挙区に党公認候補を3〜4名出し、しかも、
公認が得られず、保守系無所属で立候補しても、十分、当選の可能性はある。これは、各候補
が、派閥と個人後援会の力で選挙を戦っているためである。したがって、自民党政治家が、選
挙に当選するために重要なのは、所属派閥の力と、地元への利益誘導を通じて、強固な個人
後援会を作り上げることであり、これに対して、党の公認を得ることの重要性は、相対的に
低いものであった。
 小沢は、小選挙区制を導入することで、「個人後援会中心の選挙」から「党営選挙」に改めよ
うとした。小選挙区制の下では、当然、各党候補は1名であり、党公認が当落にとって、決定
的な影響をもつ。さらに言えば、自民党公認を得られなければ、当選することは、極めて厳し
くなる。そして、このことは、公認権を握る、党執行部の権力が派閥に代わって絶大になるこ
とを意味し、候補者の選定においては、各議員の党の政策への貢献度、理解度が基準になる。
小沢は、「派閥の連合体」であり、「議員政党」的性格を持っていた自民党を「中央集権化」しよ
うとしたのである。
 「このように、小沢の『政治改革』のねらいは、自民党の中央集権化と社会党の解体、保守
二大政党化の2つにより、憲法見直しをはじめとする、日本の政治、軍事大国化に必要な諸
政策を機動的に遂行しうる体制づくりをねらっていたといえる。」(6)

第四節  小沢の挫折

だが、小沢が目指した政治改革は、完全には実現することなく、挫折に終わることになる。
その大きな原因の一つは、小沢の「政治改革」が、当時、国民の間で求められた「政治改革」と
は、本質的にかけ離れたものだったことにある。「政治改革」が選挙制度改革によって実現す
るという点は、両者において共通しており、実際に、細川内閣において、政治改革関連法案が
成立し、選挙制度改革は実行された。
 しかし、選挙制度改革によって、国民は、金権選挙の打破と政界浄化を期待したのに対し
て、小沢にとっての選挙制度改革とは、あくまで、保守二大政党制へ移行し、憲法見直し、自
衛隊海外派遣等の、自らの政治理念を実現させるための手段であった。この点について「小
沢の政治改革論には、自民党の派閥政治、汚職、腐敗、金権政治そのものへの批判は終始欠落
して」(7)おり、国民の支持を得る上で致命的な欠陥だった。したがって、小沢路線は、政
界再編によって、「議員レベルの離合集散を引き起こしはしたが、有権者レベルの再編成に
は、全く成果を挙げられなかった」(8)のである。
 そして、もう一つの原因は、自らの改革を、既存の政党を離合集散させることにより、すで
に選挙で選ばれていた議員を動員して実現しようとしたことである。小沢は、選挙制度改革
後の選挙に当り、改革の担い手として、新生党、公明党、民社党、日本新党などを合成して「新
進党」を作るが、それらの議員が、全て、小沢の目指す改革に賛同して新進党に参加したとい
うわけではなかった。とりわけ、従来、福祉、平和を主要な政策に掲げていた旧公明党議員に
とって、小沢の自衛隊海外派遣等の安保政策には、かなりの違和感があった。また、旧新生党
議員にしても、「そもそも、新生党結成時に、政策志向により小沢支持に集まったわけではな
く、小沢との個人的人脈で彼に従った議員が多かっただけに」(9)必ずしも、小沢の政治改
革を理解し、賛成していたわけではなかった。事実、新進党は、小沢の政治改革を推進するこ
とは出来ず、やがて、既成の政党の寄せ集めという実態が表面化し、最後は「分党」という形
に終わる。
 以上の2つの原因により、小沢の「政治改革」は挫折に終わる。そして、小沢の目指した改
革と、それに伴う、経世会分裂以降の一連の行動は、選挙制度改革を実現し、政界再編という
政党分野の離合集散を引き起こすにとどまった。結局、小沢は、自らの政治改革のうちの選
挙制度改革以上の部分において、国民の支持を形成することが出来ず、また、国会議員を改
革に動員することにも失敗したのである。

 (1)  土屋繁 「自民党派閥興亡史」花伝社
 (2)  渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店
 (3)  大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」中公新書
 (4)  同上
 (5)  渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店
 (6)  同上
 (7)  同上
 (8)  大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」 中公新書
 (9)  同上

第四章  小泉内閣の誕生と経世会支配の終焉

第一節  経世会支配の復活

 社会党、新党さきがけの連立離脱により、少数与党政権となった羽田内閣は、1994年
6月23日、わずか65日で内閣不信任案を前にして総辞職した。代わって、6月29日、村
山富一社会党委員長が首相に指名され、自民、社会、さきがけの3党による、連立政権が発足
した。自民党にとっては、約11ヶ月ぶりの政権復帰であった。
 自民党は、1993年の衆院選後、宮沢に代わって、河野洋平を総裁に選出していた。また、
政権を失った反省から、党の体質の変革が試みられ、その柱として、派閥解消が唱えられた。
実際に、派閥事務所の閉鎖の申し合わせが行われ、マスコミは、各派閥に「旧」の文字を付け
ることにしたが、この派閥解消は表面的なものであり、実質的に派閥の活動は続けられた。
自民党が短期間に政権復帰を果たしてしまったことで、自民党の派閥解消をはじめとする
体質改善は実行されることなく、立ち消えとなる。
 村山連立政権は、1996年まで続くが、その間、1995年10月に、河野に代わり、経
世会の橋本龍太郎が総裁に就任した。そして、村山内閣の後を受けて、1996年1月11
日、2年半ぶりに自民党首班による、橋本内閣が発足した。経世会にとっては、竹下以来、2
人目の首相であった。この年の10月、小選挙区比例代表並立制による、初めての総選挙が
行われ、自民党は過半数には届かなかったものの、勝利し、選挙後の11月に発足した第二
次橋本内閣は、3年3ヶ月ぶりに自民党単独政権になった。この時、経世会は88人で、三塚
派86人、宮沢派73人を抜いて、党内最大派閥に復帰していた。
 1998年7月12日の参議院選挙で、自民党は敗北し、橋本首相は退陣する。これは、橋
本内閣が、景気対策よりも財政再建を優先させ、消費税の5%への引き上げ等の政策を進め
たことにより、景気が失速し、有権者の支持を失ったためである。経世会は、総裁選に、会長
である、小渕恵三の擁立を決め、当時、幹事長代理だった野中広務らが、多数派工作を行い、
優位に立った。7月24日の総裁選には、小渕、経世会を離脱した梶山静六、三塚派の小泉純
一郎の3人が立候補し、小渕が選出された。小渕は、宮沢以来5年ぶりの派閥領袖の総理総
裁となった。
 「小渕勝利の背景には、経世会という、党内最大派閥の全面支援と、加藤紘一、山崎拓ら、
『ポスト小渕』を狙う、他派閥領袖の思惑、内閣、党のポストに就きたいという陣笠議員の心
理が支持の広がりを生んだ。」(1)小渕内閣の誕生は、こうした点で、同じ経世会でも、行政
改革を掲げ、「自民党再生の切り札」として、派閥横断的に支持を受けた橋本内閣の時とは異
なり、名実共に、「経世会支配」の復活であったといえる。

第二節  小泉内閣の誕生と経世会支配の終焉

 小渕は、1999年9月の総裁選でも、加藤、山崎を破って再選を果たすが、翌2000年
4月2日、脳梗塞で倒れる。小渕内閣は総辞職し、4月5日、森喜朗が後継総裁に就任した。
「森総裁誕生」の経緯は、小渕が倒れたことが、突然の出来事だったとはいえ、総裁選等、必要
な手順を全く踏んでおらず、森や経世会の青木幹雄、野中広務ら「5人組」が談合して決定し
たものだった。この選出方法は、「密室で選んだ」と批判され、森退陣の際に、「次は、密室では
なく、開かれた総裁選で決めるべきだ。」(2)という党内の空気を醸成し、地方で、党員によ
る予備選が実施されることに繋がる。
 「森内閣は、発足当初こそ、41.9%の支持率を得たが、『神の国』発言等、首相自身の相
次ぐ失言により、支持率はすぐに下がり始めた。このため、2000年6月の衆院選では、都
市部、比例区で自民党は惨敗を喫した。秋には、支持率20%を割り込み、加藤、山崎両氏が、
退陣要求を突きつける『加藤の乱』にまで発展した。」(3)さらに、2001年2月10日
に起きた、「えひめ丸沈没事故」への対応で、世論の支持を決定的に失い、党内の大勢も、森退
陣へと動き、3月10日、森首相は、事実上の退陣表明となる、総裁選の前倒し実施を表明す
る。
 そして、この総裁選では、前述した、森総裁誕生の経緯への批判から、党の地方組織である
都道府県連が、党員による予備選の実施を強く要求し、結局、広島、山口を除いて、党員投票
を行い、その結果によって、各都道府県に3票ずつ割り当てられた地方票が決定されること
になった。
 総裁選には、経世会の橋本龍太郎、森派の小泉純一郎、江藤・亀井派の亀井静香、河野グル
ープの麻生太郎の4人が立候補した。だが、実際には、橋本が、経世会に加えて、堀内派の支
援を受け、それに、江藤・亀井派も決選投票では、橋本支持に回るとみられ、国会議員の数で
圧倒的優位に立っていた。
 したがって、選挙の焦点は、小泉がどれだけ地方票を獲得できるかであり、実質的に「橋本
対小泉」の図式となった。但し、江藤・亀井派が橋本支持に回った場合、国会議員数で、橋本と
小泉の差は、約100人になり、地方の予備選で圧倒的な勝利を収めない限り、小泉の当選
は絶望的な状況だった。
 しかし、予備選の蓋を開けてみると、小泉は、41都道府県で1位となり、123票を獲得
したのに対して、橋本が1位になったのは、橋本の地元、岡山、青木の地元、島根、野中の地元、
京都など5府県であり、わずか15票の獲得にとどまった。この結果により、小泉の勝利は
決定的となり、亀井は本選を辞退し、江藤・亀井派は小泉支持に回り、堀内派も自主投票に方
針転換した。そして、2001年4月24日、国会議員による投票が行われ、その結果、小泉
は、正式に自民党総裁に選出された。
 小泉が、地方における予備選で、「地滑り的勝利」を収めた理由は、財政構造改革などの政
策が受け入れられたことと同時に、小泉が掲げた、「脱派閥政治、反経世会」の政治姿勢が支
持されたことが大きい。小泉は、この姿勢を鮮明にするために、総裁選以前に就いていた、森
派会長職を辞め、派閥も離脱した。また、小泉は、海部内閣時代に、山崎、加藤と共に「YKK
グループ」を結成して以来、事あるごとに経世会との対決姿勢をとってきたが、この総裁選
では、改めて、派閥政治、経世会支配の打破を訴えた。
 「派閥政治、経世会支配の打破」これは、リクルート事件以来、国民が望んできたものであ
ったが、小選挙区制導入による「政治改革」を通しても、実現されることはなかった。そして、
自民党の政権復帰後も、何ら変わることなく、経世会支配は続いた。しかし、総裁選が「橋本
対小泉」の図式になった時、国民の大半は、小泉が橋本を破って、経世会支配を終わらせるこ
とに期待をかけた。それは、一般の国民とはややかけ離れた存在である、自民党員も同じだ
った。
 小泉は、総裁選中、「私が勝てば、総裁選史上で初めて、最大派閥の支援を受けないで勝つ
総裁になる。」と語っていた。小泉内閣の誕生は、大平内閣以来続いた田中支配と、それを受
け継いだ経世会支配の終焉と言える。

 (1)  土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社
 (2)  読売新聞政治部 「小泉革命 自民党は生き残るか」 中公新書
 (3)  同上

おわりに

 1、派閥の弱体化と派閥人事の否定

 2001年4月の総裁選予備選は、派閥の組織力が弱まりつつあるという事実を象徴す
る結果となった。元々、予備選でも、小泉よりも橋本のほうが有利と言われていた。なぜなら、
党員全体の65%が経世会の影響力が強い、各種団体の職域党員だからである。
 過去をさかのぼると、自民党は党則に基づいて党員投票による予備選を実施したことが、
1978年と1982年の二度あるが、いずれも、経世会の前身である田中派が推した候補
が1位となった。特に、1978年は、現職首相だった福田赳夫が、田中派の全面支援を受け
た大平正芳に敗れたのであり、田中派の職域党員への影響力の強さを見せつけた。
 田中派の流れを組む、経世会も、職域票獲得に自信を持っており、総裁選において、影響力
の強い有力支持組織を通じて、職域支部の党員票を押さえようとした。
 しかし、予備選の結果は、小泉が、党員票の58%を獲得したのに対して、橋本は30.
2%にとどまり、小泉の圧勝だった。この結果は、「職域支部の締め付けは効かなかったと言
われている。」(1)ように、派閥の影響力の弱体化と、経世会が得意としてきた「組織型選挙」
の崩壊を示している。
 小泉内閣の誕生は、確かに、経世会支配を終わらせたが、それは、一時的なものに終わる可
能性も十分あり、本当の意味での派閥政治の解消が実行されるかは、今後も注視していく必
要がある。
 だが、小泉が、「脱派閥政治」に取り組んでいることは事実であり、それは、特に人事面で顕
著である。小泉は、経世会を党3役からはずし、閣僚人事でも、これまでの派閥人事を行わな
かった。従来、閣僚人事は、各派閥の推薦名簿から、大臣ポストを配分する「派閥均衡人事」だ
ったが、小泉は、派閥に関係なく、自分が適任と思う人物を選んで組閣を行ったのである。
 この派閥人事を否定した意味は大きい。なぜなら、ポスト配分機能は、資金の配分と並ぶ、
派閥の権力の根幹であり、求心力である。派閥が人事に関する権限を失えば、その存在意義
は大きく薄らぐことになる。したがって、派閥人事の否定は、派閥解消への第一歩であると
言える。

 2、小選挙区制と派閥政治の解消

 最後に、政治改革を目指した、小選挙区比例代表並立制の導入は、完全な失敗に終わった
のかという点に触れたい。これに関しては、「政党本位の政治、政権交代は実現されず、政治
改革で目指していた政治像とは正反対の方向に向かっている。」(2)と言う研究者も多く、
あながち、間違っているとも言えない。
 しかし、新制度の下での総選挙は、まだ2回しか行われておらず、小選挙区比例代表並立
制というシステムが、今後、効果を発揮していく可能性は残されている。また、新制度での2
度の選挙において、すでに、政党、政治家の行動と有権者の投票行動の双方に、徐々に変化が
見られるのも事実である。
 その変化のひとつは、政党、とりわけ、野党が小選挙区制型の行動様式を取ることで、政権
交代の可能性を作り出した点である。まず、1996年10月の総選挙においては、新進党
が、小選挙区で235人の候補者を立て、比例区と合わせて、合計361人の候補者を立て、
また、2000年6月の総選挙では、民主党が、前回の新進党を上回る、262小選挙区で候
補者を立てて、過半数の議席獲得を目指した。結果的には、政権交代は起きなかったが、中選
挙区制時代の社会党が、1958年総選挙を除いて、一度も定数の過半数の候補者を立てな
かったことと比較すると、この野党の姿勢の変化は、十分、評価に値する。
 もうひとつの変化として、選挙において、党首の存在の重要性が、非常に高まってきてい
ることが挙げられる。1996年総選挙では、政権交代を狙う新進党が、小沢一郎党首を首
相候補として明示し、有権者に政権選択を訴えたのに対し、自民党も、橋本龍太郎総裁を前
面に出して選挙を戦った。
 逆に、2000年総選挙では、党首のマイナスのイメージが、選挙結果に影響を与えた。森
首相が、自身の度重なる失言により、国民の激しい反発を買ったため、自民党は支持を失い、
都市部、比例区で惨敗した。また、民主党についても、鳩山由紀夫代表に、全盛期の菅直人の
ような人気があれば、選挙結果において、自民党と民主党の差は、さらに縮まっていたと思
われる。
 そして、2001年7月の参院選での自民党の勝利は、言うまでもなく、「小泉効果」によ
るものである。事実、小泉を総裁に選んだ自民党議員や、党員たちの投票行動は、間近に迫っ
ていた参院選、さらにその後の総選挙において、誰が、総裁なら勝てるかという判断による
ところが大きい。
 選挙において、党首イメージが重要になってきている理由は、無党派層の投票行動に大き
く影響するからだと考えられる。朝日新聞の調査によると、「2000年の衆院選の比例区
では、無党派層の15%が自民に、37%が民主に投票したが、2001年の参院選では、無
党派層の27%が自民に投票したのに、民主には20%しか投票しなかった。」(3)この結
果は、無党派層の票が、森首相のときには、民主党に流れていたが、小泉首相になって、今度
は、自民党に流れたことを、よく表しており、党首の存在が、いかに選挙結果に影響を与える
かを物語っている。
 小選挙区比例代表並立制における、党首イメージの重要性。ここに、自民党の「脱派閥政
治」へのヒントがあるように思われる。党首によって、選挙結果が、大きく左右されるとなれ
ば、必然的に、党首(総裁)の権限、リーダーシップは強化されることになる。前述したように、
1996年総選挙は、総裁である、橋本を前面に出して戦った、自民党は勝利したが、このこ
とは、選挙後、橋本の総裁としての立場を強化し、持論であった、行政改革を実行する上で、
強力な基盤となった。また、2001年参院選での自民党の勝利は、小泉内閣の政権基盤を
強化し、小泉が掲げる、構造改革の推進力となっている。
 また、党首のイメージが重要となれば、それは、総裁の選出過程の透明性に繋がる。従来の
ように、派閥の論理や、一握りの人間だけで「密室」で総裁を決めていては、もはや、選挙に勝
てないことは森首相によって実証された。このことは、総裁選の在り方そのものを変えるか
もしれない。これまでは、総裁選こそが、派閥の最大の存在意義、究極の目的であり、派閥の
合従連衡で総裁選の結果は決まった。しかし、そのようにして、総裁を選ぶことに対しては、
いまや、国民ばかりか、地方の党員までもが反対であることが明らかになった。今後は、開か
れた総裁選を通じて、派閥とは全く関係なく、国民や党員に支持される人物を総裁に選ぶべ
きである。そして、このことは、派閥の存在価値をなくし、派閥解消にも繋がるだろう。
 「近年の日本は、いわゆる無党派層が5割を超える状況であり、特に、都市部において、与
党としての利益配分の力のコントロールを超えるような投票動向が出現する可能性は絶え
ず存在する。」(4)言い換えれば、これは、政権交代が十分起こりうる状況だということが
出来る。そして、この状況の下で、自民党が、脱派閥政治を進め、民主党をはじめとする野党
が、常に、政権を担当する態勢を整え、自民党に対案を提示して、野党としての機能を果たす。
そうなって初めて、日本政治が、国民の望む形に近づき、「政治改革」が実現したと言えるの
ではないだろうか。

 (1) 「朝日新聞」 2001年4月24日
 (2) 山口二郎 「危機の日本政治」 岩波書店
 (3) 「朝日新聞」 2001年12月17日
 (4) 後房雄 「選挙制度と政策過程」

参考文献
 土屋繁 「自民党派閥興亡史」 花伝社
 西川知一、河田潤一 「政党派閥」 ミネルヴァ書房
 渡辺治 「政治改革と憲法改正 中曽根康弘から小沢一郎へ」 青木書店
 大嶽秀夫 「日本政治の対立軸」 中公新書
 読売新聞政治部 「小泉革命 自民党は生き残るか」 中公新書
 後藤謙次 「竹下政権五七六日」 行研
 山口二郎 「連立政治 同時代の検証」 朝日新聞社
 小沢一郎 「日本改造計画」 講談社
 竹下登 「政治とは何か」 講談社

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