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【 以下の引用等は全て----の責任による。】


1980年代の自民党の派閥政治



<目次>

はじめに
第1章     大平正芳内閣から中曽根康弘内閣までの移行と各派閥の動き
  第1節   大平正芳内閣「ハプニング解散」
  第2節   鈴木善行内閣成立と党改革
  第3節   中曽根康弘内閣成立のプロセス
第2章     鈴木善行政権下での「総裁公選規定」の改正と中曽根康弘政権
  第1節   1977年以降の「総裁公選規定」の改正
  第2節   「思案」における各派閥の意思集約と改正
  第3節   新「総裁公選規定」の導入
第3章     派閥と社会
  第1節   派閥と経財界
  第2節   派閥と個人後援会
第4章     なぜ1980年代自民党の派閥は解消され得なかったのか
  第1節   派閥内的要因
  第2節   派閥外的要因
  第3節   まとめ



はじめに

  日本の各政党には各々に流派が存在することは周知の通りである。その中でも、自
民党は派閥として特に明確に現れている。
  派閥の主な機能は「選挙」「かね」「人事」である。
  マスコミは派閥の長を「領袖」と呼んだが、自民党総裁は必然的に首相の座を射止
める。総裁に選出されるために、各派閥の領袖は、国会(衆院)議員をできるだけ多く集
めなければならない(「数は力」)。また、選挙には金がかかる。議員を派閥に抱えるとい
うことは、選挙において所属議員の面倒をみることを意味するためである。つまり
、派閥の領袖は派閥を維持するために、はたまた派閥を大きくして首相の座を狙うため
には、莫大な資金を必要とする。逆に金を集められる領袖の下には議員や議員になろ
うとする者が集まり、派閥が増大化することになるのである。この集められる金をめ
ぐってロッキード事件やリクルート事件をはじめ、数限りない構造的汚職(腐敗)が起き
たのであり、政治腐敗は自民党派閥政治の必然的結果とも言えた。
  相次ぐ政治腐敗は当然の事ながら国民から批判されてきた。その結果、派閥解消も
叫ばれることになるのである。
  派閥解消に関しては、1962年の池田勇人内閣における、総裁候補推薦機関の設置を
めぐる派閥間の争いの際に「派閥は速やかに解消すべきである」として審議されている。
しかしながら、その際大派閥であった佐藤派と藤山派の反対にあい実現されなかった。
また、1981年には、総裁候補決定選挙を総裁候補が3名以内の場合には、原則として
実施しないことを定めた「総裁公選規定」の改正をめぐる派閥間の争いの際の再度の
派閥解消論も実現していない。そして、1993年の宮沢喜一内閣不信任決議案可決によ
る衆議院総選挙で自民党が惨敗し、結党以来はじめて政権の座から下野した時にこれ
が最も強く唱えられるようになったのである。
  殊に1980年代は金権政治(自民党の腐敗)が表出した最中である。ここでなぜ派閥解
消が不可能であったかを、大平正芳内閣(68~69代)の終焉から鈴木善行内閣(70代)、中
曽根康弘内閣(71代)までを通して検証していきたいと思う。


第1章    大平正芳内閣から中曽根康弘内閣までの移行と各派閥の動き

第1節    大平正芳内閣「ハプニング解散」

  1976年総選挙が三木内閣時代の三木武夫と田中角栄の対立によって主流・反主流の
分裂選挙になったのをきっかけとして自民党の分裂が起こり始める。さらに、1979年
総選挙で自民党が再び敗北した後の第二次大平内閣成立の際、福田赳夫、三木武夫、
中曽根康弘ら反主流派が大平首相の責任を追及して退陣を要求、これを拒否した大平
首相と大平を支持する田中角栄との間の40日間に及ぶ政争のあげく、総裁選挙後の新
内閣の首相を指名する衆議院本会議に主流と反主流がそれぞれ首相候補を立て、党内
抗争を国会の場まで持ち込む前代未聞の事態になった。1980年5月大平内閣不信任案
が党内反主流派69名欠席の衆議院本会議で可決された事態は、このような自民党の事
実上の分裂が修復しがたいところまで進行していることを示したものといってよいだ
ろう。
  この解散劇は、社会党の飛鳥田一雄委員長が大平内閣不信任決議案の提出にはじま
った。本会議採決は回避されると見ていた自民党反主流派の福田派、三木派、中川
派の69議員は本会議欠席戦術ととらざるをえなくなり、記名採決の結果、賛成243票・
反対187票で可決された。この結果をもって、大平内閣は臨時閣議を開き、衆議院の
解反対散・総選挙を決定したというものである。わが国における国政選挙史上初の衆参同
日選挙を6月22日に実施するという強行策で内閣側も応えたのである。そして、選挙
の最中に大平正芳が死去するという事態が起こり、自民党は党首なき選挙戦で投票日
を迎えるという異常な成り行きをたどることとなってしまったのである。

第2節     鈴木善行内閣成立と党改革

  ハプニング解散が起こった五月政変以降、田中角栄演出による衆参同日選挙だけで
なく、自民党の圧勝と有権者意識の変化が自民党分裂にブレーキをかけた。つまり、「大
平の弔い合戦」をスローガンに掲げることによって有権者の同情を集めた上に、参院選
と重なったことにより有権者を動員できたことで自民党は圧勝したのである。 また、
財界からの50億円の資金調達も自民党の結束を条件とされていたようである。
  衆参同日選挙を圧勝した自民党がなぜ鈴木善行のような一般に知られていないよう
な人物を満場一致で首相に選んだのであろうか。
  6月12日大平首相が突然死去した後、後継者の有力候補としてあげられたのは、中
曽根康弘(田中角栄の支持を取り付けているとされ最有力視)・河本敏夫・宮沢喜一であ
った。ところが6月22日の投票日を境にして状況は一変した。党副総裁の西村英一に
よる暫定政権構想が投票日前に取り沙汰されたが、西村氏が落選してこの構想が崩れ
ると、25・26日頃から当初は全く予想もされなかった鈴木善行の名前が浮上し始め、
あっという間に本命で固まったのである。
  同日選挙後になって大平派が鈴木を代表に選出するとともに、大平派と田中派と福
田派の間で鈴木を総裁候補者とする工作が進められたのである。それと並行して、党
基本問題運営調査会の「話し合い」による総裁選出をうたった「政局安定に関する答申」
を踏まえて、党執行部の調整が行われた。執行部は最高顧問会議、地区別代議士会、
当選回数別の議員との会談などで、党内の意見を聴取した後、党大会に代わる両院議
員総会を開催し、西村副総裁が鈴木氏を総裁に「推薦」し、総会はそれを受けて鈴木氏
を総裁に「選任」するという手続きが取られた。
  というのも、財界では危惧したらしい。田中角栄の支持を取り付け「大角連合」を基
盤に政権を目指す中曽根氏と、反主流派三福プラス中川グループを基盤とする河本と
が争えば、これまでの党内抗争の基本図式である「大角」対「三福」の分裂の再現に
なる。そこで、大平内閣不信任の際「党内分裂回避」を条件に総選挙資金の協力に応じ
た財界が再び後継者問題で、大平・福田・田中の三派のあっせん役をしたということ
である。
  この内閣は、自民党一党支配体制の危機を回避するための緊急避難的課題をその成
立の経過で背負わされてきている。その意味では大平内閣を継承して、自民党の指導
層の世代交代を準備する中継ぎの性格を持った政権であり、政権担当の長短に関わら
ず、あくまでも「暫定政権」とみるべきであろう。
  鈴木総裁選出後、党執行部は党改革推進本部(本部長鈴木総裁)と党基本問題調査会
(会長根本龍太郎・無派閥)とに党の改革の検討を諮問した。そして、81年1月に次の
総裁選を見越してこの課題を3月末を期限として結論を出すよう要請している。そこ
で、各派の中堅幹部で構成している同本部世話人会(座長田村元・田中派)においてこれ
までの審議を本格化することとなった。
  総裁選は一方では党員が総裁候補を選ぶことを通じてその党員意識を高め、他方で
は党員の拡大と党資金の増収をてこにして、自民党が「近代的」な「組織党」となる礎
石としても位置付けられていた。ここで党改革が求められたのは、現実に顕現した総
裁候補決定選挙の実態は、派閥による党員の党費の立替えなどからも明らかなように、
派閥の地方拡散を招来し、総裁職をめぐる中央の派閥抗争が文字通り拡大生産された
ことを示しているからである。

第3節   中曽根康弘内閣発足のプロセス

  党改革の結果として、1981年6月総裁選出手続きルールが変更された。内容は、総
裁候補決定選挙は候補者が4名以上の場合に実施し、得票総数の多かった上位者3名
を対象に総裁決定選挙を行うというものである。
  1982年10月12日、突然、鈴木氏が秋の自民党総裁選に再出馬しないと表明、政権
の座を退くこととなり、実際に総裁候補決定選挙(予備選挙)が導入された。総裁候補決
定選挙の結果は、中曽根康弘58%・河本敏夫27%・阿倍晋太郎8%・中川一郎7%で、
2位と3位の候補者は総裁決定選挙を辞退し、その後の党大会で中曽根康弘が総裁とし
て承認された。つまり、総裁決定選挙(本線)における投票は実施される必要がなくなる
ので、総裁の選出は満場一致の形をとることになるが、候補者の特定化が選挙におけ
る投票という手続きを踏んでなされたのである
  その裏で、主流派と反主流派との妥協の結果、党四役と鈴木・福田・二階堂から成
る「三人委員会」が調整にあたったが、総裁候補決定選挙の告示と同時に始まった立候
補者の選挙運動の凍結期間が切れる土壇場に開催された最終的な調整は、「三人委員
会」と党四役とにより、実質的に合同で行われている。

○新版 日本の内閣V 白鳥令編 新評論 1986年
  鈴木善行(70代) 千田恒
○自民党疑獄史 現代政治問題研究会編 現代評論社 昭和51年
○保守体制(上・下) 白鳥令編 東洋経済新報社 昭和52年
○政権争奪 戸川猪佐武著 サンケイ出版 昭和50年

第2章    鈴木善行政権下での「総裁公選規定」の改正と中曽根康弘政権

第1節    1977年以降の「総裁公選規定」の改正による主な変更点

  1977年4月の改正では、まず、総裁決定のプロセスとして総裁候補決定選挙と総裁
決定選挙が導入されることとなった。総裁候補決定選挙は、党所属国会議員20名の推
薦を得た候補者を、二年分の党費を完納した党員が選び、各都道府県支部連合会で集
計し、得票の多かった上位2名を支部連合会の推薦候補者とする。そして、総裁決定
選挙では、持ち点制(党員1000名につき1点の割合で配分された支部連合会の持ち点
を推薦候補者に対して両者の得票数に比例して付与する)を導入し、持ち点の多かった
順に、上位2名につき党大会において党所属国会議員によって行うこととなった。
  次に1980年1月の改正では、持ち点制は各都道府県の3位以下の票が上位2位の票
に吸収されるという矛盾が起こるという批判が多かったため廃止された。これに伴っ
て、候補者の得票を全国集計し、得票総数の多かった上位者2名について、総裁決定
選挙を実施することとなった。
  そして、1981年6月の改正で、総裁候補決定選挙は候補者が4名以上の場合に実施
し、得票総数の多かった上位者3名を対象に総裁決定選挙を行う。候補者が2ないし3
名の場合は、一定の要件が備わった場合を除き、総裁候補決定選挙は実施しないとさ
れた。また、立候補には、党所属国会議員の50名以上の推薦を必要とするとされた。
  これらの一連の改正によって、1980年代の「総裁公選規定」は完成した。

第2節     「試案」における各派閥の意思集約と1981年6月の改正

  1981年の改正の際の議論では、次期総裁候補を有しない派閥、つまり「非当事者的
関係者」と次期総裁候補を有する派閥、つまり「当事者的関係者」によって対応が二
様に分極化する。
  まず、当事者的関係者の鈴木派の動きを見てみると、勝負を総裁決定選挙に持ち越
すために、総裁候補決定選挙を存続するにしても、事実上形骸化したいとして自派の
意見を明確にしなかった。また、これまで弱小・傍流派閥であった河本派は、1978年
現在の党員151万7761人のうち河本派系列党員は約半数と言われ、今選挙で圧倒的に
勝利すれば総裁間違いなしとまで党内で囁かれていたほどなので、存続論を強く訴え
た。この党員数は派閥の党員獲得運動で前回集計時より3倍にも膨れ上がったとされ
ており、その獲得競争において河本派が現段階においてはリードしていたのである。
これに対して、中曽根派は、総裁決定選挙に政治戦略の重点を置き始めており、田中
派の支持を取り付けて総裁決定選挙に勝利しようと考えていた。そのためには総裁候
補決定選挙で2位以内に入ることが必要であるが、このままでは3位の可能性が高い
ため、福田派以上の廃止論を展開した。
  次に、非当事者的関係者の田中派の動きを見てみると、鈴木氏支持のため存続論が
大勢であったが、自派では明確な総裁候補がいないためはっきりとした意思表示を避
け、傍観者の立場で臨んだ。同じく非当事者的関係者の福田派の動きは、福田氏が1978
年の総裁候補決定選挙に敗れた心傷が残っており無条件的廃止論の唱導者として動い
ていたが、後に田中派・鈴木派に引き寄せられた。つまり、鈴木体制を支える鈴木派・
田中派・福田派の三派の間で総裁候補決定選挙手続きの「名存実亡」化に向けて意思
集約されたことになる。
  その後提示された「試案」では、三派の思惑通りの内容となった。総裁候補決定選
挙の性格は以下のようになった。第一に、総裁候補決定選挙は複数の総裁候補を選ぶ
ためのもので、順位は争わない。これは河本派の戦略に対する予防線といえる。第二
に、総裁候補決定選挙において選ぶべき総候補者数を超えない時は無競争当選とする。
第三に、国会議員の発議において行うこともできる。これは河本派に対する「救済策」
として提示されたが、同派の勢力からして事実上不可能である。第四に、総裁候補決
定選挙で選ぶ候補者は三名とする。また、立候補制度は推薦制とされ、国会議員の50
名の推薦が必要とされるが、これが可能なのは田中・鈴木・福田の三派のみであった。

第3節     新「総裁公選規程」の導入

  通常の総裁選びは「話し合い」によって決定される。しかし、「話し合い」がつかな
い場合には投票による総裁選出手続きがとられることになる。総裁候補決定選挙導入
後は、総裁候補決定選挙を実施した後、2位以下の候補が総裁決定選挙を辞退し、満場
一致で総裁を決定することになった。つまり、総裁が予備選挙と本選挙の二つの選挙
を通して選出されることとなったために、実質的に予備選挙が総裁選出手続規定の改
正前の総裁選挙と同じ機能を果たすようになったといえる。改正前の総選挙は、党大
会の選挙における投票によって総裁が選出されていた。『党則』や『総裁公選規程』が
予定する通りの形で総裁が選出されているところに特徴があった。
結果として、1982年の選挙までに田中派の党員獲得作戦により、党員数は321万
1941人までに膨れ上がり河本派系列党員を田中派系列党員が上回り、実質的に河本派
は巨大な力に押しつぶされてしまったのである。

○自民党のドラマツルギー 総裁選出と派閥  田中善一郎著 東京大学出版会 1986年
○『朝日』 1979年2月21日〜1981年6月4日
○『毎日』 1981年3月13日・14日

第3章    派閥と社会

第1節    派閥と経財界

  派閥がなぜ巨大な資金を必要とするのかを細かく見ると、派閥勢力の維持・拡張だ
けでなく、派閥の結束や予備選挙のための党員獲得作戦などの政権争奪戦に備えるた
め、その他一般活動経費のためである。
  次に、資金を調達する手段であるが、一つは企業の経営者が政治家の政治団体に所
属し、その会費という形で行われる企業の寄付である。これは70年代頃までは寄付の
大部分を占めていたが、80年代に入ってからは企業の派閥に対する献金は「年間150
万円まで」と決められたため、企業はより合法的な方法での献金方法を模索しはじめ
たからである。つまり、派閥のパーティーによる調達である。パーティー券の購入は
政治献金とみなされないからである。また、派閥内の有力議員による寄付もかなり大
きなものとなる。これは派閥に対する資金援助とともに派閥内の若手の育成という側
面ももち、このような方法で派閥内のニューリーダーとして力をつけるのである。つ
まり、資金調達の上手い幹部ほど、自己の後援会の維持・強化にもふんだんに金をか
けることが出来るから、選挙でも強いし、党内でも影響力を持つようになるのである。
このようなシステムが自民党の金権体質を深めたとも言える。その他、例外的に派閥
の資金による財テクがある。繰越金が主であるが、このようなものも流用される余地
があるわけである。
  では、なぜ経財界は党本部だけでなく派閥や有力議員個人に対する寄付を行うのだ
ろうか。1965年以降、自民党本部への一括寄付が政治献金の大部分を占めている。と
いうのも、政権と特定の企業・業界との露骨な結びつき、その結果引き起こされる保
守政治に対する世間の不信をできるだけ低位に抑えることを業界・党本部の両者が目
標としていたからである。自民党全体の結束を求めるための援助であれば党本部への
寄付で十分に対応でるのである。しかし、個々の企業や業界別にみると、やはり不況
対策のための公共事業予算の積み上げに焦点をあて、実益を伴う目的のために寄付を
行うものもある。特に1980年代は第二次臨時行政調査会の行政改革が、増税回避を求
める財界の強い要請と前面支持を背景にはじまり、「民間活力の導入」として公共事
業予算の積み上げが頻繁に行われたため、建設・不動産業界の寄付の比重が大きくなっ
ている。このような予算配分においては派閥も力を発揮するため、このような寄付を
行う団体はいかに自身の団体に利益をもたらすかを考慮に入れながら、経団連の寄付
に加えて、パーティー券の購入のような個々の顔が見える寄付に重点を置くようにな
っているのである。

第2節    派閥と個人後援会

  代議士は予算の分捕り合戦に参加し、選挙区のために大型の補助事業や公共事業を
取って来る。そこで勝ち抜くために特定の省庁と提携したり(族議員)、有力な派閥に身
を寄せて派閥の力を借りたりしなければなければならない。そのため、予算は公共の
利益からの視点を離れて、自民党の票を伸ばす分野に集中的に配分されることも起こ
りうる。また、省庁は自分の省庁の予算を増やすために有力議員との提携を図り、自
治体の首長や議員も自分たちに手柄をたてさせてくれる代議士との提携を考える。そ
して、有権者の多くもまた地元への利益の導入を優先的に考え、それができる有力な
政治家に票を集めていく。この仕組みが自民党の長期支配の大きな理由そのものとい
えるのではなかろうか。つまり、自民党は長期にわたって与党であったために、それ
を利用しつつ自分たちの選挙に有利な集票組織を作り上げることができた。そして、
その装置をさらに精密なものにしつつ選挙で多数を制していくのである。
  その装置というのが個人の後援会であり、後援会は代議士、さらには自民党にまで
利益をもたらす。その主な利点としては、まず、自民党の機関レベルで厄介な問題を
抱えたとしても、集票に繋がる後援会レベルにおいては代議士の立場や好みに応じて
自由自在に伝えられるため、選挙で党のあり方全体が問われるということにはならな
いというところにある。次に、伝統的な支援者に被害を与える事態を迎えても、代議
士の努力の経過をみせることによって努力の評価を得る、もしくは早い段階から代償
措置を打ち出し、被害を最小限に抑えるなどの独特の集票システムによって自民党の
受ける衝撃を最小のところまで緩和するところにある。更には、中選挙区制において
自民党議員の後援会が競争相手と考えるのは、同じ選挙区の別の自民党議員の後援会
であり、1区ごとの選挙をみる限りでは過当選挙が自民党に有利に働くとは言えない
が、長い目でみるとこの過程で野党の議席増のための基盤の侵食まで行っていると言
えるのである。

○自民党ー長期支配の構造 石川真澄・広瀬道貞 岩波書店 1989年

第4章    なぜ1980年代自民党の派閥は解消され得なかったのか

第1節     派閥内的要因

  本来中選挙区制は、少数政党も当選が可能であり、少数意見を国政に反映できる制
度とされてきた。しかし、現実には自民党議員の個人後援会の陣地の取り合いと化し、
さらには自民党内で派閥ごとに候補者を乱立し、派閥間の党内抗争にまで発展した。
本来生かされるべき少数意見も自民党内の支持候補者の差異でしか争われる余地がな
いほどに自民党が勢力を拡大し、野党の抵抗勢力を衰弱させてしまったのである。そ
して、本来ならば少数政党も力をつけることが可能であったはずの中選挙区制は、自
民党派閥政治の食い物にされ、自民党の一党支配体制につながってしまったのである。
  国勢選挙においては、自民党では候補者1名に対して、約1億5千万円もの資金が
必要とされる。このような資金は派閥に所属していれば、派閥から支給されるし、党
内でも有力な派閥に所属すれば候補者の名前が売れるのも早いため、候補者は派閥に
所属しようとするのである。そして、支持者を集めるために金をばらまく自民党元来
の体質と中選挙区制が「かね」のかかる選挙をエスカレートさせていったのである。
  それだけではない。首相の座を射止めることになる自民党総裁選挙において、総裁
候補決定選挙が導入され、一般党員が参加するようになったことは、各派閥の領袖に
資金力が求められることになったということである。例えば、総裁候補決定選挙を勝
ち抜くために、架空の党員を増やし、党費は派閥が納めるといったことを行ったり、
他の派閥の領袖を支持する党員を転向させたりするような地道な作戦を用いるのであ
る。このような派閥間の応酬によって、2・3年のうちに党員が100万人足らずから300
万人以上に膨れ上がったほどである。これが派閥の地方拡散を助長し、派閥勢力を膨
張させる結果となったのである。

第2節    派閥外的要因

  日本は高度経済成長を経て、1970年代から安定成長を遂げてきた。その中で、自民
党は長期政権を維持するために、ばらまき予算をしばしば用いてきた。地方重視を国
の政治の基調として定着させたり、おくれた産業を保護したりしたのもその一環であ
る。そのために、赤字運行が目に見えていてもローカル鉄道網を充実させたり、高速
道路計画、整備新幹線計画、地方空港計画などの公共事業の乱発がなされたりしてき
た。また、農業に対する補助金や高米価政策、税制の特典、石炭の高価買い上げなど
も行われた。このような事業は地方出身の議員の後援会の要請や知事や市長等の陳情
によるものである。この事業を行うことによって出身議員が住民の評価を得ることと
ともに、次の選挙で自民党が勝つことに重きを置いてなされてきたのである。つまり、
補助金や公共事業が自民党の票を支える大きな柱となり、これは「おくれた地域」「お
くれた産業」を国の資源によって支えるという自民党の基本政策と表裏の関係にあた
る。つまり、このような事業は公平に行われるのではなく、党の中でも権力を持って
いる議員や大派閥に所属している議員が選挙の票と結びつけて行ったものと言った方
が正しいであろう。しかし、1980年代に入るとオイルショックの余波で予算編成は赤
字国債依存になり、国債残高が膨張し、財政の硬直化現象を引き起こした。このため
第二次臨調以降公共事業の見直しが図られ、国鉄の民営化によってローカル沿線を国
政から締め出し、整備新幹線の着工も当分の間凍結するとし、さらに石炭を輸入に頼
る方向に政策を転換し、閉山に追いやった。このようにして財政の引き締めが目指さ
れたが、やはり古い体質の議員の抵抗にあい、中途半端な改革に終わってしまい、結
局、公共事業は集票装置としてのかたちを留めたのである。また、公共事業予算の積
み上げは先に述べたように建設・不動産事業関係者の政治献金を増加させ、派閥の増
大化の一端を担っていたのである。1980年の公共事業費が25兆円であったのに対し、
1991年は47.8兆円と約2倍に増加していることからもこれが見て取れる。

第3節    まとめ

  なぜロッキード事件を経験した直後の1980年代前半の自民党であっても派閥の解消
がされ得なかったのか検証してきた。国民によって悪と判断される派閥も自民党内部
の者からしてみれば、失われる信用より得られる金に傾いたと言うべきであろうか。
中選挙区制によって「かね」のかかる政治が体質化した自民党に、総裁候補決定選挙
というさらなる「かね」を必要とする制度の導入。その集票のための公共事業予算の
ばらまきパフォーマンス。それに呼応するかのような企業・業界による公共事業の取
り合い合戦としての政治献金。1980年代、このような「かね」中心の政治体制を派閥
が完成させ、補強した時代とも言える。つまり、自民党は派閥を解消する方向に動く
どころか、派閥が主体的に「かね」を集めることが可能となるように法整備を進める
など、派閥のかたちをより明確にしていったのである。

○自民党ー長期支配の構造 石川真澄・広瀬道貞 岩波書店 1989年

【参考文献・資料】
自民党のドラマツルギー 総裁選出と派閥 田中善一郎著 東京大学出版会 1986年
新版・日本の内閣V 白鳥令編 新評論 1986年
鈴木善幸(70代) 千田恒
中曽根康弘(71代) 福岡政行
政党派閥  西川知一・河田潤一編著 ミルネヴァ書房
自民党―長期支配の構造 石川真澄・広瀬道貞 岩波書店 1989年
自民党HP http://www.jimin.jp/

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